日本に住んでいる人にとって、一年には二回の始まりがある。
新年と、新年度。
一月と四月。
年度が変わり新しい一年が始まる。今年がどんな年になろうと、とにかく無事に乗り切れるように―そんなことを考える年齢になった。
辻堂ゆめ『答えは市役所3階に』を読んだ。
そこには“あの頃の空気”が閉じ込められていた。
コロナ禍の異常な日常。
あれを客観視できるくらい、時間が経ったのだと思う。
最初の頃に感染した人たちは、まるで罪を犯したかのように扱われていた。
今思えば、隔離しようがどうしようが、結局ほとんどの人が感染することになったのに、未知の病気への恐怖が社会全体を硬直させていた。
けれど、恐れていたこと自体は間違いではなかったはずだ。
もしあの時、一気に多くの人が感染していたら、病院は確実に回らなくなっていた。
それまで、パンデミックが来ると言われていたのに、「そんなことは起きない」と信じたい自分がいたことを思い出す。もし本当にそんな事態になったら、人類は滅びるかもしれない―そんな不安がうっすらとあった。
でも実際には、人はその恐ろしい状況を受け入れ、やり過ごし、乗り越えた。
もちろん、大変な時間だったし、今も苦しんでいる人はいる。
それでも、人は“なんとかする力”を持っているのだと強く感じた。
買い物が少し困難になった時期があった。
マスクが買えない、小麦粉が品薄、棚が空っぽのスーパー。
でも不思議と、私はそれを深刻には受け止めなかった。
「みんな買えないのなら仕方がない」
そう自然に思えた。
“自分だけが大変じゃない”という感覚が、あの時の私の精神を支えていた。
授業がオンラインに切り替わり、突然ITスキルが必須になった。
大変ではあったけれど、それは同時に自分のスキルを伸ばすきっかけにもなった。
あの混乱の中で、私は意外と柔軟に適応していたのだと思う。
そして、生成AIが急速に発達した。
AIが文章を書き、絵を描き、音楽を作り、会話までできるようになったことで、私は「人間とは何か」を考えるようになった。
私が考える“人間らしさ”は、「ないものを想像すること」だ。
AIは、あるものから“ありそうなもの”を作ることはできる。
でも、存在しないものを前提に世界を組み立てることはできない。
たとえば信仰。
私は信仰心がないけれど、信仰心を持つ人の世界を理解できる。
幽霊を信じてはいないけれど、幽霊が“ある”世界を想像することはできる。
自分が信じていないものを、他者にとっての真実として扱える。
自分の世界には存在しないものを、仮に立ち上げて考えることができる。
この“ないものを想像する力”こそ、人間の特異性であり、弱さであり、強さでもある。
人は、ないものを想像しながら生きている。
だからこそ恐れ、だからこそ希望を持ち、だからこそ他者を理解しようとする。
その想像の力が、人間らしさの中心にあるのだと思う。
