人から、なんでそんなに怒らないの?と言われることがある。
優しいよね、と言われることもある。
ありがたい言葉だし、批判されているわけではもちろんなく、褒められているはずなのだが、私のなかには違和感が生まれる。
伝えられたその言葉が、腑に落ちないのだ。その言葉が、そのままふわふわと、私の周りを漂い続けてしまう。
私は果たして、気が長く優しい人間なのだろうか。利己的でなく利他的な人間なのだろうか。本当に、そうだろうか。本当に?そんなことをぼんやり考えつづけてしまう。
いや違う。そう、どう考えても違うのだ。
争うのが苦手だから、文句を言わないだけ。日々私の心中は穏やかな状態が続いているわけではない。
誰かの理不尽な言動は根に持ち、失礼な人は本当に受け入れることができない。やれることをきちんとやっていない人を、目ざとく見つけてしまう。ただ、その思いをいちいち表に出すのが面倒なのだ。
怒りを面に表すのは、エネルギーを大量消費する行動だ、という思いが先に立つ。ただ、それだけのことでしかない。そんな人間を優しい人間とは言わないだろう。だって、心の中では悪態ばっかりついているのだから。
でも、怒りを面に出さないのは事実ではある。
だから、普段の私はあまり怒らない。いや、怒っているようには見えない。
気にかかる事柄に出くわしても、見ないふりかため息でやり過ごす。
でも、そうしよう心がけていても、どうしてもやり過ごせないときはある。相手に、それはおかしいと伝えるしかない状況に出会うことがある。
厄介なのは、怒りを露わにした後だ。外へ現した怒りの収め方が上手くいかない。
結構な時間、そのイライラで生じたダメージを引きずってしまう。そんな自分をどうにかして回復させるのは、自分か時間しかないのは分かっている。
可能なら、早く回復して忘れてしまいたいけれど、思うほどにはうまくいかないのだ。
心や感情は自分の中にあって、自分のものであるはずなのに、どうしてこんなに自由が利かないのだろう。なんて自分は不自由な存在なのだろう。
そんなとき、私は本を読むようにしている。
でも、そんな日に限って時間がないことがある。本を読むのには、一定の時間が必要だ。
時間はないけれど、どうにかしたい。
そんな時に手に取る写真集。
おススメ対象 中学生~大人
巨岩とともに暮らす人々、目から手が生えた大将軍がある寺、ココナツ教のあった島、人骨教会・・・。
人間の不思議。自分という存在の小ささ。自分の思っている当たり前が、他の人にとっては必ずしも当たり前ではないのだという事実。
パラパラと全体を眺めるのに、時間はほとんどかからない。
でも、見終わるころには感じていたわだかまりが、「きれいさっぱり」とまではいかなくても、ほとんどなくなってしまっている。
怒りは主観的な感情だ。自分から離れて客観視することは、いつもの自分に立ち返るきっかけをくれるのだ。