みんな誰かの子どもであるということ


どこで生まれ、どのように育つのか、それを誰も選ぶことができない。どのような形をして、どの時代に生きるのか、それも選ぶことはできない。どんな出会いをし、どうやって成長していくのか、それも完全には選べない。

選ぶことができないのに、どこでいつ生まれるのかは人の一生に大きな影響を与える。だから「親ガチャ」なんて言葉が生まれるのだろう。

人生は平等なんかじゃない。初めから不平等だ。

不平等だから、自分でなんとかしなくてはならない。勉強したり、スポーツしたり、とにかく努力して人生を選び取っていかなくてはならない。

でも、それも言うほど簡単にはいかないのだ。

不平等に抗う機会が得られるかどうかも、自分ではどうしようもないところで決まっていくのだから。

そんなときは、誰かの助けが必要になる。

この本のオボロのような人の助けが。

当たり前のことだけれど、全ての人には必ず親が居るのだ。人は、その親に大きな影響を受けてしか生まれ得ることができない。

親と子の関わり合いがあるか、親が生きているかどうか、個別の状況はそれぞれ違うけれど、その状況の違いに子どもは大なり小なり影響されていく。

生まれたときに背負わされた荷物は、大きさも重さもバラバラだ。成長していく過程で、その荷物の様態が大きく変化する場合もあるだろう。

軽くなるのなら問題ないが、より重く大きくなることもある。親から背負わされている荷物は、子ども自身にはどうしようもないことなのに、その荷物が容赦なく子どもを苦しめていく場合がある。

自分は親としてどうだろうか。

子どもとしてどうだったろうか。

大人としてどうあるべきだろうか。

大人に裏切られ、いじめつけられ、搾取された子どもたちが助けられる場所がたくさんあってほしいと思う。自分も何かすべきだろうと思わされる。

「自分を大事にすればいい」

『付き添う人』

オボロの言葉が胸に響く。自分で自分を大事にできない状況にある子が、世の中にはたくさんいる。

大事にしたくても、大事にできないこともあるだろう。

でも、自分を大事にすればいいと言える大人でありたい。