共同体の中で生きていたら、必ずついてまわる「役割」
小学校に入学してから今まで、いろんな「役割」を与えられてきた。もしかしたら、保育園に通っていたときからもうすでに与えられていたのかもしれない。いや、たぶんそうだろう。
小さい頃の自分も「今日の当番の人ー」って、先生に言われてた気がする。
「引き受けたくないな」と思いつつも引き受けなければならなかった最初の「役割」は「学級委員長」だった。その時代、1クラスに男女1人ずつの「学級委員長」がいた。
基本は挙手制で決まることになっているが、「まるおくん」のような人は普通のクラスにはいないのだ。決まらないから、先生からの指名かクラス全体の投票で決まっていく。決まったら当然、拒否権はない。
「学級委員長」を引き受けたあの日から、いろんな「役割」を引き受けてきた。
引き受けてきた結果、「役割」を引き受けるのは何となく損だという思いがある。学生のころ引き受けていた「役割」は内申書や自己推薦書に書くことができるから、まあ、よかったけれど、大人にそんなものは存在しないのだ。
「役割」を持たない人より余分な仕事をしなくてはならないし、何か問題が生じたときは、その集団の先頭に立って謝ったり怒られたり責められたりしなくてはならなくなる。当然、神経を使う。
「役割」を持った人が参加しなくてはならない会議には、知らない人がたくさん参加している。新しい良い出会いがあることもあるが、できたら関わりたくない人とも関わらなくてはならない。威圧的な人、攻撃的な人、冷たい人、やたらと連絡してくる人、仕事を放り出す人などがどの会にも一定数いる。
アリの集団から怠けアリが居なくならないように、人間の集団には、自分が苦手だと感じる人が必ずいるのが不思議だ。
引き受けた「役割」に見合う報酬がもらえるならば、もう少し前向きに「役割」に向かえる気がするが、多くの役割は無報酬を前提としているため、あまり前のめりには活動できないでいる。
だからなのか、それ以外の理由も多々あるだろうが、どんな会も「役割」決めは難航する。難航してくじ引きになることもある。でも、どう考えても自分より日常が大変そうな人に「役割」がまわりそうになると、手を挙げずにはいられない。無理をすれば、何とかできそうだから自分がやればいいか、1年(2年の場合もある)で終わるだろうし、そう思って引き受けてしまう。
結果、「役割」を引き受けて無理をし、今年は体調を崩してしまった。そんなときは、何もしない人はズルいとさえ感じてしまう。
でも、そもそも、その大変な「役割」って本当に必要なの?無駄な仕事も多い。なくせないの?だれもやらなかったらなくなるのではないの?
そんな思いを持つ人はきっと読んでみたくなるだろう。
おススメ対象 中学生~大人
解決策も論じてあって、なるほどそうだな、と思えるところはある。
でも、実際に変革していくのは大変そうだなと思う。おそらくものすごく時間がかかる。でも、何もやらなければ、何も変わらない。少しずつだったとしても、やるべきなのだろう。
何かの「役割」で「それって必要?」と思う仕事を振られたら、思い切って声をあげてみようか。変な人と思われるかもしれないけど。
ちょうど今、岸田首相の内閣改造において、副大臣と政務官に女性が一人も起用されなかったことが大きく取り上げられている。それに対して「クオーター制」の早期導入の検討をすべきだという意見があった。この本を読むと、確かにそうだなと納得できる。