まど・みちおさんの『いわずにおれない』を読み終えた。
生の不思議、無生物の不思議、世界の不思議、出会いの不思議、そして宇宙の不思議。まどさんは、それらを「分類」することなく「同じ地平」に置いて見つめていたように思う。どれもが等しく限りなく複雑で、近づこうとすればするほど遠ざかる。それらに対峙し新しい発見に驚き、それをことばにしてきた。
この本を読んでいるときに、机の上の新聞が、ポコッと小さな音を立てた。ほんのわずかな空気の動きか、紙の癖による変化。その瞬間、「新聞がそこにいる」という感じがふっと立ち上がる。「ある」のではなく「いる」だ。無生物の新聞が立てた音。日常の中に潜んでいる「存在の不思議」が、まどさんのことばに照らされて、輪郭を持って現れたようだった。
まどさんは、自分の弱さを引き受けたうえで、目の前のものに誠実であろうとした人だと思う。
戦時中に書いた戦争詩を、のちに全詩集に載せたことについて、「自分がぐうたらなインチキで時流に流されやすい弱い人間だということを、自戒しつづけなくちゃならんのです」と話していた。
弱さを引き受けるというのは、自己否定とは違う一面がある。
自分の限界を知っているからこそ、世界の複雑さに対して誠実でいられる。
まどさんの詩が対象物にそっと寄り添うように響くのは、その姿勢が根底にあるからだろう。
一方で、ことばの制限から解放されたい思いから、抽象画を好んで描いたという話も印象的だ。詩はことばでその存在に迫ろうとするものだけど、ことばから解放された抽象画のほうが、存在により近づけるという。
ことばは便利だ。
でも一方でことばには不便さも限界もある。
何かをことばにするということは、ことばにできなかった部分を影に回してしまうということだ。ことばにできるということは、ことばにできないものたちを、たくさん抱えるということにつながる。
私たちはことばを使いこなしているようで、実はことばによって世界の見え方をコントロールされているのだと思うことがある。
たとえば、私が子どもの頃には「ストレス」ということばは一般的ではなかった。だから、周りの大人たちは負荷を抱えていても、それを「ストレス」として感じることがなく、「ストレス」から完全に解放されていたはずだ。
しかし、「ストレス」ということばを知った社会は、「ストレス」にまみれた社会へと変貌した。「ストレス」という概念が、社会の空気を変え、今はもう「ストレス」から逃れるのは簡単ではない。
「ソーシャルディスタンス」もそうだ。このことばが広まったことで、それまで気に留めることのなかった空間が、急に「社会的な距離」という新しい質を持ち始めた。世界の中に新しい領域が出現したような感覚だ。
その他にも、ことばが世界の見え方を変えてしまった例は、きっとたくさんある。
ことばの便利さに寄りかかりすぎず、ことばの外側にある気配を大切にする。「わかりきれない」を前提にしながら、それでも近づこうとする。「伝えきれない」ことを知りながら、それでもことばを差し出す。
まどさんの姿勢は、人と向き合うときにも、世界と向き合うときにも、忘れてはいけないものだろう。
新聞の小さな音に驚いたあの瞬間、私はまどさんの世界と同じ方向を向けていたのかもしれない。存在の輪郭がふっと立ち上がる瞬間を逃さないまなざし。まどさんのことばに触れたことで、日常の中の驚きが少しだけ鮮やかに見え、世界がその分だけ面白くなった。
