この夏、スポットバイトにチャレンジしている。
カフェやホテルなど、初めて行く場所で、初めての人たちに囲まれ、初めての仕事をする。
これまでいろんな経験をしてきたから、初めての仕事でもなんとかできはする。
でも、失敗しないようにと緊張したまま働くから、疲労感がとにかくすごい。
その場限りの人たちと、そつなく会話をすることも十分にできる。
けれど、頭を使いすぎて夜眠れなくなる。
高橋源一郎『「書く」って、どんなこと?』を読んだ。
大人になったから、どんな場所でもなんとか瞬時に会話をすることはできるが、書くとなると話は別だ。いくつになっても話すようには書けない。それはなぜなのだろうと、ずっと考えていた。
その答えが少しだけ分かった気がした。
子どもに向けて書かれた本だから、読みやすい。そして、読んでいるうちに身体のほうが先に「書きたい」と動き出す。
夏休みの作文の前に読むと、きっと書くことが少し好きになる——そんな本だった。
読んでいて強く残ったのは、 「わたしはわたしでしかなく、わたしから出るために書く」 という感覚だった。
ふだん、私の内側にはたくさんの声がある。 思考、感情、違和感、まだ言葉にならないざわめき。 それは、取り出さないと「わたし」の中に閉じ込められたままだ。それを「わたし」から解放するための一つの方法が「書く」ということなのだ。
書くことは、閉じ込められていた声に輪郭を与え、 外の世界に自立して立つ瞬間をつくる行為である。 「わたし」の中にいる「わたし」が自由になる瞬間。書くという行為はそれを可能にする。
けれど、「ことばは社会によって意味が定まる」 性質もついて回る。
私が使う言葉は、社会の価値観や規範に影響されている。 つまり、私の考えは社会によって“検閲”されているというのだ。
けれど書くとき、考えずに書くことで、あるいはそのことを十分に考えながら書くことで、 その検閲をほんの少しだけすり抜けることができる。 社会の言葉を使いながら、社会の意味づけから離れる—— その矛盾した行為こそが、 書くことで“私から出る”という感覚の核心なのだと思う。
書いた言葉は、もう私の内側だけのものではなくなる。 誰かに届く可能性が生まれる。
そして、外に置かれた自分の言葉を“見る”ことで、 書く前の私とは少し違う私と出会える。
書くことで“わたしから出る”。 内側の声が社会の意味づけを一瞬だけ離れ、 外の世界に自立して立つ。 その感覚を意識して書けば、話すように書けるのかもしれない。
