「あるかも」「あったかも」しれない未来


SFを読むとき、思考がすっと横にずれるような感覚を覚える。
日常の延長線ではなく、ふと別のレールに乗り換えてしまったような、そんな軽いめまいのような感覚だ。見慣れた景色が、少し違う角度から光り始める。その瞬間が好きで、私はときどきSFを読む。

柞刈湯葉『まず牛を球とします。』は、その“横ずれ”の感覚を強く思い出させてくれた短編集だった。


この本には、「あるかもしれない未来」と「あったかもしれない未来」が、確かな手触りで詰まっている。未来の枝分かれをそっと指し示すような物語たち。もし別の選択をしていたら、もし別の価値観が主流になっていたら──そんな“もしも”が、どの短編にも息づいている。

未来の話を読むと、「そんな世界、本当に来るのかな」と半歩引いてみる気持ちも生まれる。
けれど、自分の日常を振り返ると、すでに“あり得ないはずの未来”の中に立っていることにも気づく。


子どもの頃、手のひらの小さな板で世界中とつながるなんて想像もしなかったし、AIと対話して相談に乗ってもらう日が来るなんて、物語の中の出来事だと思っていた。

子どもの頃まで遡らなくてもいい。大学生で遠距離恋愛をしていたときには、気軽にメールを送る手段すらなかった。電話を待つ時間は、今思えば“時差”のように重くて、距離そのものが心に影を落としていた。


先日、その話を子どもにしたら、ぽかんとした顔で「日本国内で遠距離恋愛っていわないかも」と言われてしまった。今の子たちは、連絡手段がいくつもあるからか、私たちが「遠い」と感じていた距離をそうとは思わないようだ。若い頃には考えられなかった“未来”が、もうすっかり日常になっている。

そう思うと、「あるかもしれない未来」も、案外すぐそばに転がっているのかもしれない。未来はいつも、気づかないうちに日常へと溶け込んでいく。
だからこそ、SFが描く“別の未来”は、決して遠い世界の話ではなく、私たちのすぐ横にある可能性のひとつなのだと思う。

環境問題や世界情勢、景気のことを考えると、人類はどん詰まりのような気がして暗くなることがある。ニュースを見ていると、未来は縮んでいくばかりのように感じてしまう。
けれど、「行き止まりに見える道にも、まだ分岐はある」のだ。世界は選択の連続でできている。ならば、これからの私たちがどの枝を選ぶかで、未来の形はゆるやかに変わっていくはずだ。

読み終えて、少しだけ呼吸が軽くなった。
未来は決まっていない。
だからこそ、今日の小さな選択を丁寧に積み重ねていきたい。
そんな気持ちにさせてくれる短編集だった。